戦後の沖縄

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戦後の沖縄

 

朝鮮戦争から戦後

戦後、アメリカ政府は沖縄県をアメリカ軍政下に置きました。

やがて朝鮮戦争が勃発すると、沖縄県を東アジアの要石と捉えるようになり、アメリカ本土からの駐留軍を増加し、旧日本軍施設以外にも住民の土地を強制的に接収しました。
 これがいわゆる“銃剣とブルドーザーによる土地接収”です。軍事力に物を言わせるアメリカに沖縄は翻弄されるばかりでした。
 そして1952年平和条約において沖縄県は正式にアメリカ軍の管理下に置かれ、琉球政府が創設されると各地にアメリカ軍基地や施設が作られました。
 アメリカ兵の起こす事件で住民の被害者が多く出るようになると、県民は“島ぐるみ闘争”と言われる抵抗運動を起こしました。同じ頃、祖国復帰運動を行い1960年に沖縄県祖国復帰協議会を結成しました。

ベトナム戦争と沖縄

1960年のベトナム戦争で沖縄県が最前線基地とされると、駐留米軍が急増して事件や事故も増加しました。爆撃機が沖縄から戦地へ向かうこともあり、復帰運動は反米、反戦の色を強めました
 事件や事故が多発していては日常生活を平穏な気持ちで送ることができません。常に緊張と不安にさいなまれて過ごさなければならない状況は、県民に多大なストレスを与えたはずです。更に戦争の悲惨さを直に体験している沖縄だからこそ、もう戦争はしてはいけないということを強く感じていたのでしょう。平和な毎日、平和な世界を希求する声が次々と挙がりました。
 その一方、飲食業・土木建築業・風俗業などの関係勢力は復帰反対、米軍駐留賛成の運動を起こし、その支持を得た議員が賛成派議員と衝突しました。

同じ県民の中でもアメリカ軍がいることで商売繁盛して利潤を得ていた人もいるのです。彼らは生活がかかっていますから、そういう意見を出すのも当然と言えます。利益が絡むと様々な考え方が出てくるのは政治の難しいところです。

国の政治と沖縄

また県外にも返還反対派はいました。日本共産党や日本社会党です。
日本の佐藤栄作政権は沖縄返還と共に1970年に予定されていたアメリカ合衆国との安全保障条約の延長を緊急の外交課題としていました。そのため、沖縄返還は安全保障条約と同列の扱いになっていたのです。
安全保障条約は一国では自国の安全を必ずしも確保できないために他国と結ぶ条約で、軍司同盟的な色彩を帯びています。具体的には日本における安全保障のため、アメリカ合衆国が関与して、アメリカ軍を日本国内に駐留させることなどを定めているのです。
つまり安保の下に沖縄が日本に返還されるということは、沖縄に入っているアメリカ軍も一緒に日本に入ってくるということです。多くの人が反対しているのはその点でした。新左翼や学生運動、各種労働組合までもが反安保・反返還の活動を行いました。
屋良朝苗や復帰賛成派の沖縄県民は日本復帰と同時に米軍基地の全面返還を望んでいたため、米軍駐留反対という想いは県外の国民と同じでした。しかし、県外の国民もまた自分達の生活を守らねばなりませんでした。
戦争の時は日本のために頑張ったのに、米軍基地を有しているために他県の国民からも日本復帰を反対されてしまう……沖縄の悲劇は続いていました。
1969年日米首脳会談ではアメリカ大統領ニクソンが沖縄返還を約束し、1972年に琉球政府は沖縄県となり日本に復帰しましたが、復帰賛成派の県民が求めた米軍基地の全面返還は叶いませんでした。

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