古琉球

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グスク時代の沖縄

2世紀頃からをグスク時代と言い、稲作・畑作を中心とした農耕を基盤とする社会が成立し、集落が海岸部から台地上へと移動しました。

この時代の沖縄は中国大陸や日本本土と盛んに交流しており、東南アジアからも陶磁器を輸入するなど、アジア貿易の中継点として重要な役割を果たしていたようです。

この貿易で力をつけた有力者は地元農民を束ね按司(豪族)となり、石垣で囲まれたグスクと呼ばれる城を築きました。按司は周辺集落を支配下に入れて、小国家へ発展していきます。

各地の按司を束ねた三山時代

14世紀には各地の按司を束ね三つの国ができました。承察度が治める南部の南山、英祖王統を滅ぼした察度が治める中部の中山、怕尼芝が治める北部の北山の3つです。

この時代は百年続き、三山時代と呼ばれています。

1406年には南山の佐敷按司の尚巴志が中山王武寧を滅ぼし、父である尚思紹を王に就かせます。

1416年には山北王攀安知を滅ぼして、1429年頃に山南王他魯海を滅ぼし、こうして三山時代が幕を閉じたのです。尚巴志は首里城を王都として初代琉球国王となり、第一尚氏王統が始まりました。

初代琉球王国へ

しかし地方の按司の勢力は依然として強く、中央集権を実現させるには至らなかったため、尚巴志没後は不安定な政情が続いていました。

四代琉球国王の尚金福の没後は、後継を巡り息子の尚思魯と尚布里が争い首里城は焼失、明にもらった琉球国王之印も失うこととなります。そこで巴志の七男である尚泰久が明へ使者を送り国王印を下賜されて王となりました。

尚泰久王の子尚徳王が在位9年で急死した後は、重臣らの考えにより尚泰久の重臣であった金丸が即位した。金丸はその後、尚円王を名乗り、第二尚氏王統が始まったのです。

円王が亡くなると弟の宣威王が即位しますが、六ヶ月で退位。第三代王位には泰久王の子尚真王が五十年在位し、これが琉球の黄金期となります。

御嶽信仰を中心とする宗教を設備、南山と北山の按司を首里に移住させる代わりに按司掟を送るなどして中央集権を強化、国民の武器を没収し内乱防止と国防の備えとしました。

16世紀になると中国が東南アジア諸港で貿易を開始、ポルトガル・スペインなど南蛮勢力が台頭するにつれ、琉球と東南アジアの貿易は廃れていった。

江戸幕府と琉球王国

1603年に江戸幕府が成立、1609年には幕府の命を受けた薩摩藩主島津忠恒が琉球を征伐します。島津軍は三千人にも及び、百隻の軍船が琉球に向かったのです。

軍が奄美大島に上陸すると、大島は薩摩に対し非常に強力的な姿勢を示した。この段階で琉球政府は降伏を試みるが失敗に終ります。

徳之島の一部で戦闘を経た後、薩摩軍が沖縄本島北部の運天港に到達し、既に無人となった今帰仁城に到着。そこに琉球の西来院菊隠が到着し正式に降伏を申し出ました。

琉球は島津氏への忠誠を誓う起請文を提出させられ、第二尚氏を存続したまま薩摩の間接支配を受けることになったのです。

以後、尚氏代々の王は幕府の将軍に謝恩使・慶賀使を派遣する義務を負った。また清との朝貢貿易の実権を薩摩藩に握られるこことなります。

時代の幕開けと開港

1665年、摂政に就任した羽地按司朝秀は琉球立て直しに尽力し『羽地仕置』『中山世鑑』を編纂した他、間切番所を設置するなど地方改革も実施しました。

これを引き継いだ蔡温は農業改革を進めます。

幕末頃からは欧米各国が来航し、開国を求めるようになっていきます。

1844年にはイギリスとフランスが通商を求めて来航、琉球に限り薩摩の通商を許可するという幕府の指示で、1847年に琉球は開港しました。

1853年、日本来航前のマシュー・ペリー提督が琉球を訪れ、首里城に入場し、国王に大統領からの親書を渡します。その後江戸で日米和親条約を結び、帰路で再び首里城を訪問して琉米修好条約を結びました。

日本の開国により、日清両属体制を活かした琉球を介しての中継貿易は急激に衰えていくのです。

 

こうして沖縄の歴史は流れていきます。

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