ひめゆりの塔

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ひめゆりの塔


ひめゆりの塔

沖縄県糸満市にある慰霊碑で、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立っています。

1945年、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員は沖縄陸軍病院に看護要員として従軍しました。その後、激しい砲撃にさらされるようになったため陸軍病院そのものが、回復の見込みのない負傷兵と学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜みました。 日本にとって厳しい戦局になると学徒隊は解散を命じられますが、壕の外は激戦地となっているため、外に出ることは大変困難な状態でした。 そして第三外科壕の人々は脱出する前にアメリカ軍の襲撃に遭い、ひめゆり学徒隊の中でも最も多くの犠牲者を出しました。黄燐手榴弾などの攻撃を受け、多くの人が亡くなったのです。第三外科壕にいたひめゆり学徒隊のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはたった5名のみでした。解散命令以後の死亡者は、ひめゆり学徒隊における死亡者の全体の8割以上にものぼります。

併設されているひめゆり平和祈念資料館には、犠牲になったひめゆり学徒隊の方々の写真が飾られています。その若さに、彼女達を巻き込んだ戦争の悲惨さ、恐ろしさを痛感し、平和について改めて考えさせられます。

“ひめゆり”という名は学徒隊員の母校である沖縄県立第一高等女学校の校誌名『乙姫』と沖縄師範学校女子部の校誌名『白百合』とを組み合わせた言葉で、もとは“姫百合”でした。ひらがなで記載されるようになったのは戦後のことです。

本来ならば勉強も遊びも恋も、何でもできる人生の素敵な時期を送るはずだった彼女達。その運命を変えたものは何だったのでしょう。二度とこの悲劇を繰り返さないため、今を生きる私達に宛てられた沢山の言葉と想いを掬い取っていきたいものです。  沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、参拝する人々は絶えません。忘れてはいけない大事な記憶を碑に刻み、ひめゆりの塔は平和の尊さを示し続けます。

ひめゆりの塔WIKIPWDIA(公式)

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