【沖縄の文化】沖縄で平和を考える
旧海軍司令本部壕
第二次世界対戦時、太平洋地域では最大規模の陸上戦を繰り広げることとなってしまった沖縄戦。
「旧海軍司令本部壕」は、文字通りその大日本帝国海軍の指令本部が置かれた防空壕でした。
敗戦色が濃くなり始めながらも、なんとか食い止めようと沖縄の軍備強化のため、1944年に建設されました。
完成した翌年、1945年3月、アメリカ軍による沖縄への攻撃が始まり、6月に入ると、激しさを増す攻撃により、陸軍との合流も叶わず、この指令本部も包囲され、海軍は付近に孤立した状態に追いやられました。
壕の中にトイレはなく、兵士たちは外で用を足す必要がありましたが、激しくなる戦いの中、外へ出ることは非常に危険であり、やむを得ず壕内で済ますようになったそうです。
悪化する戦況と、苦しい壕内での生活は、精神的にも衰弱してゆくものだったことでしょう。
戦後、ここでは2300名以上の遺骨が収集され、慰霊塔が建てられ、1970年より復元された壕内が一般公開されるようになりました。
【場所】〒901−0241 豊見城市字豊見城236番地
【TEL】098−850−4055
【開館】(7月〜9月)8:30〜17:30/(10月〜6月)8:30〜17:00
【入館料】大人:440円/小人:220円
嘉数高台公園(かかずたかだいこうえん)
普天間基地が見渡せるため、カメラマン、政府関係者の視察にも利用されるこの場所は、沖縄戦最大の激戦地でした。
1945年4月8日、アメリカによる最初の攻撃が始まりました。
当初は、9日までに嘉数を占領する計画だったため、部隊は次々と送り込まれていきます。
しかし、標高92メートルのこの丘の傾斜を最大限に利用した日本軍の対戦車線がこれを阻み、戦いは16日間も続いたと言われています。
トーチカと呼ばれるコンクリート製の小さな軍事拠点も、その役割の一端を担った遺跡として、現在も見ることができます。
当時、周辺に住んでいた住民もそれらの軍事施設の建設にかり出され、女子学生はコンクリートをこね、男子学生がそれを運んだそうです。
アメリカ軍から「死の罠」「忌まわしい丘」と呼ばれたこの場所は、両軍合わせて8万人以上の死傷者を出したとも言われており、その激戦を今も語り継いでいます。
また、日本軍の兵士の多くが京都出身者であったことから、故郷に帰れなかった彼らを悼み「京都の塔」も建設されました。
普天間基地を望める地球の形を模した展望台と、その傍らに残るトーチカ。
風化させてはいけないこと、考えなければならないことがあるのだと、感じられる場所です。
【場所】〒901−2226 宜野湾市嘉数1
【駐車場】無料
【アクセス】車で、最寄り西原ICから約5分