琉球王朝の政権交代

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琉球王朝の政権交代

琉球王朝の政権交代

琉球王朝の歴史の中でも、一度だけ大きな政権交代があったのをご存知ですか?

それは、統一王朝が成立してから約40年後の1469年のことです。
クーデターが勃発し、伊是名島(いぜなじま)の農夫の出身である「金丸(かなまる)」が政権を奪取し新王朝を開いたのです。

長い歴史の中で大きな政権交代が一度だけというのは少ないような気もしますね^^;
今回はそんな琉球王朝の政権交代についてのお話しをしていきます。

伊是名島は沖縄本島の北西に位置する島です。
その伊是名島の諸見村で長男として生まれた金丸は、青年期父を助けて農業を手伝っていましたが、たびたび長期間の水不足の状態に見舞われたり、20歳の時には両親を亡くすなど、必ずしも幸せな生活をしていたわけではありませんでした。

27歳で那覇の首里へと向かい、幸いなことに第一尚氏王統の第6代目「尚泰久王」に才能を認められ家来となります。
尚泰久王により高官に抜擢された金丸はすぐに頭角を現します。1454年に当内閣の領主に任命され、さらに1459年には王朝府の“貿易長官”に就任するなど、順調に出世していくのです。貿易長官は尚泰久王への取次職でもあり、王への意見・情況などの申し上げは、金丸を経由する必要があるほど尚泰久王の絶大な信頼を得ていたそうです。

金丸は、6代目王尚泰久のころから引き続き7代目尚徳にも仕えていましたが、悪政を働く尚徳とぶつかり隠遁したのか、させられたのか、俗世間からのがれて暮らす生活をはじめます。

それから、7代目尚徳が29歳の若さで急死し、まだ幼い尚徳の子の即位させようとしましたが、悪政を行った尚徳を罵りその子に王座を渡すわけにはいかない、金丸こそが王になるのにふさわしいと、クーデターが勃発することとなったのです。

金丸派は、尚徳の子、妃、乳母などを殺し、第一尚氏王陵であった「天山陵」を焼き払い、金丸を王として迎えようとしますが、この出来事を嘆いた金丸は、王位に就くことを拒み逃げ出します。しかし、金丸派は金丸を追いかけて懇願し、その結果、金丸はしかたなくですが王衣をつけ、首里に上ったのです。

前例に従い、また中国皇帝との関係にも配慮して、金丸は尚王家を継承し「尚円王(しょうえんおう)」と名乗りました。なので、琉球王国の歴史では、この政権交代以前の王朝を「第一尚氏王統」、それ以後を「第二尚氏王統」と呼んでいるのです。

というのが一般的な解釈ですが、やはり諸説あるので本当のことは定かではありません。
ですが、国をより良くしたいと思っている人や、野心なんかがある人がいる限り、クーデターが起こってもおかしくないし、起こった背景にもさまざまな事情があったように思います^^;

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