琉球舞踊
琉球王国として栄えていた沖縄には、さまざまな琉球の文化が残っています。琉球の歴史と関わりの深いものもあり、琉球王国を知る上で重要なものもあります。
今では沖縄の伝統芸能である「琉球舞踊(りゅうきゅうぶよう)」もそのひとつです。当時は観劇のひとつというのではなく、琉球王国と関わりの深い文化でした。あまり関係のないように思えるこのふたつにどういった関係があったのか・・・。
そこで今回は、琉球王朝時代に確立され、沖縄独自の伝統芸能である「琉球舞踊」についてお話ししていきます。
「琉球舞踊」は、冊封使(さっぽうし)を歓待する為に創作された古典舞踊(御冠船踊(うかんせんおどり))と、明治以降に新たに創作された雑踊りを含めたものです。
古典舞踊は、さらに老人踊り、女踊り、若衆踊り、二才踊り、打組踊りに分けられ、雑踊りは躍動感溢れる軽快な踊りが特徴的な庶民の生活や思いを主な題目とした踊りとなっていいます。
内容の豊かさと格式の高さにより、2010年9月に国の重要無形文化財に指定された日本を代表する芸能です。
王朝時代から変わらず受け継がれながらも、今でもなお毎年新作が発表されている伝統芸能で、「琉舞(りゅうぶ)」と略して呼ばれることもあります。
本来は男性だけで踊られていましたが、明治時代以降、特に戦後は多くの女流舞踊家が誕生しました。最近では、沖縄県立芸術大学や国立劇場おきなわの若手実演家育成により、以前のようにたくさんの男性舞踊家が誕生しています。
そもそも琉球舞踊は、神女らが古くからのしきたりである神事や祭事の中で古謡を歌いながら舞われる祭祀舞踊であったといわれています。 それらの祭祀舞踊が、能楽や中華、東南アジアなど周辺地域の舞踊の影響をうけながら発展していき、首里城や識名園、御茶屋御殿などで披露される宮廷芸能となりました。
1404年に琉球王国と当時の明が朝貢関係を結んだことにより派遣されるようになった冊封使(さっぽうし)をねぎらうために7つの宴を行いました。
その中でも特に『中秋の宴』、『重陽の宴』、『拝辞の宴』の3宴は首里城内に舞台を設置して行い、この宴に出演するのは王府に仕える士族の子弟と決まっていたのです。こうした背景が、琉球舞踊が「宮廷舞踊」とも呼ばれるようになった由来でもあります。
当時は、中秋の宴重陽の宴、拝辞の宴の3宴に出演できるのとても誇らしいことだったそうです。琉球舞踊と琉球王国との関わりの深さがうかがえますね。
琉球舞踊のような琉球王朝時代から伝わる伝統芸能からも当時のことを知ることもできます。琉球舞踊と琉球王国とのつながりもあわせて、いつまでも変わらず受け継がれていってほしいですね^^