白旗の少女

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白旗の少女

白旗の少女

2015年6月23日、第二次世界大戦中における「唯一の本土決戦」とも言われる沖縄での戦闘が終結して70年を迎えました。沖縄戦は1945年3月から3か月にわたって展開され、両軍合わせて20万人が亡くなったと推定されています。沖縄戦では民間人も容赦なく巻き添えにし、莫大な犠牲を出しただけでなく、戦後の日本からの分割統治や、返還後の米軍基地の残留にもつながり、いまも沖縄に影を落としています。

『白旗の少女』とよばれる一枚の写真があります。それは沖縄戦が終決した6月23日から2日目、ガマ(自然洞窟)から白旗を掲げて出てきた少女を撮った米軍の従軍カメラマンの写真です。少女の名前は比嘉富子さん。実は富子さんは戦後30数年経った頃、沖縄市にある洋書店で英文の戦争写真集の中から『白旗の少女』を見つけすぐに自分自身であることに気付いたが、誰にも話すことなく自分一人の胸の中にしまっていたそうです。

1945年太平洋戦争の末期、日本本土で一般住民を交えた唯一の地上戦のあった沖縄で戦火の中を逃げまどっていたある少女の話です。父の安否を尋ねて首里から南部の真壁に姉、兄と行くが父は不明でその後は当てもなくとにかく南へ逃げる。そのさなか9歳の兄は流れ弾に当たり即死、さらに南へ逃げる途中で姉とはぐれ一人さまよいあるく。もちろん食べるものもありません。ふと入った珊瑚礁のガマの中で両手両足を失ったおじいさんと盲目のおばあさんに会い数日を過ごします。老夫婦は少女を優しく受け入れ、少女はここで初めてその身を休めることが出来た。1945年6月23日、沖縄戦は終決を迎え、投降を呼びかける米軍のスピーカーの声。おじいさんは少女に一人で投降するように語りかけます。

「富子、この世でいちばんたいせつなのは、人の命(ぬち)なんだよ」・・・・・・

富子はガマの中のオジイとオバアに作ってもらった白旗をしっかり持って歩いています。

「それをもっていけば、ぜったいに安全なのだ。それが世界中の約束だから」・・・

富子に向けるカメラのレンズが銃口に見えました。富子はレンズに向かって笑って手を振ったのです。

「泣きっ面を見せるな。最後は笑って死ね」・・・

という父の言葉を思い出したのです。

少女がさまよったのは糸満市・ひめゆりの塔のある集落から、摩文仁の丘の間のあたりと思われます。この海岸には沖縄最初の慰霊塔といわれる二万体余の遺骨を集めた魂魄の塔があります。

1987年・・・「おまえ自身の沖縄戦を、ありのままに話しなさい。後世に記録として伝えなさい。それは、おまえにしかできないことだからね」・・・ご主人の後押しでようやく自分の経験を告白、新聞に紹介されます。

1989年、富子さんが51歳の時に体験を記録として本にしました。わずか7歳の少女の目線で書かれた体験記は私たちに多くのことを考えさせられました。

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