琉球処分
琉球王国がどんなに栄えていても現在は残っていないことから終わりは来てしまいます。しかもそれは、強制的に訪れたものでした。
これまでさまざまな琉球の歴史や文化についてふれてきましたが、今回は琉球がなくなるにいたった流れの「琉球処分」について少しお話ししていこうと思います。
まず「琉球処分」とは、琉球王国が明治政府によって強制的に近代日本国家に組み込まれていった一連の政治過程のことで、1872年の琉球藩設置に始まり、1879年の沖縄県設置にいたる過程をいいます。
19871年に廃藩置県を実施した明治政府は、琉球王国を鹿児島県の管轄下におきました。その翌年には琉球国を廃止して「琉球藩」にし、琉球国王を「藩王」にしたのです。
1875年には「処分官」として松田道之・元内務大丞を琉球に派遣します。廃藩置県に向けて清国との冊封関係や通交を絶ち、明治の年号使用や藩王自ら上京することなどを再三にわたり要求していましたが、琉球は従いませんでした。
そのため政府は、1879年に松田率いる約600人の随員や警官、武装兵などを琉球に派遣し武力による琉球の廃藩置県を行いました。実力行使にいたったということです。
そうして、首里城で廃藩置県が知らされ、首里城明け渡しを命じ、琉球藩の廃止および沖縄県が設置されました。沖縄県令として前肥前鹿島藩(佐賀藩の支藩)主の鍋島直彬が赴任し、王統の支配は終わったのです。
こうした琉球藩設置から廃藩置県までの一連の流れを「琉球処分」と呼び、琉球藩設置を「第一次琉球処分」、廃藩置県を「第二次琉球処分」ということもあります。
それにしても、処分という言い方が少しひっかかりますね。なにか他に言い方がなかったのかと思います・・・^^;
その後、琉球の王族は日本の華族とされました。しかし、これに納得できない琉球士族の一部は清国に救援を求めます。清国も日本政府の一歩的なやり方に抗議するといった問題が後を引きました。
外交交渉の過程で、申告への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展しましたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は途中で流れてしまうということもありました。この問題は、後の日清戦争で日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定することでおさまっています。
いきなり琉球王国の終わりを告げられても人々の戸惑いは大きかったのではないかと思います。話し合いをしてお互い納得のうえでなら問題は起きなかったかもしれませんが、無理やり押し付けられては納得できないこともあるでしょうね。さまざまな問題が残ってもそれはしょうがないことなのかな・・・^^;